破・天・慌 (2008 奈莎馬蘭)


どくだみ荘に可愛い妖精がやってきた!みたいな話だった前作(違いますか)がこけたので、本来の?スリラー路線に戻ってきたシャマランの新作。
セントラルパークのベンチに座っている女子学生の「今自分がどこにいるかわかんなくなっちゃった」というつぶやきで幕を開け、そこから数分間は突如発生した「自殺病」の地獄絵図。箸みたいなヘアピンで自らののどを刺す女子学生、工事現場の足場から次々と飛び降りる作業員の折れ曲がった手足などがストレートに描写される超禍々しいイントロが終わると、高校で理科の授業を行うマーク・ウォルバーグ*1のシーンへ。ある日忽然と数万匹のミツバチが消えた事件の原因について生徒たちの意見を聞いたあと、ウォルバーグは「科学的であるということは物事の不可知の部分を認めることだ」みたいなことを語る(だまって進めてもいいのにこれを言わせずにいられないところがシャマラン)。そこへニューヨークで化学テロが発生との報が入り、授業をキャンセルして最近情緒不安定な妻(ズーイー・デシャネル)の待つ家へ戻る。道行く人々が次々と自らの命を絶つ怪現象は瞬く間に東海岸全体に広がりだし、まもなく彼らの住む町まで達しようとしていた…。
凶事の予感を描かせたら天下一品のシャマランが、今回は「そのもの」の描写をガンガン入れてきておりその点の期待は裏切られません。避難民のケータイに送られてくる実況血まみれ動画や、あるマシンを使った自死の描写など、黒沢清「回路」のワンカット飛び降りシーンの「見ちゃった」感をより即物*2的にした、ひとつ間違えればNC−18なシーンの連続。そんなゴア描写もさることながら公園を散策する人が一斉に立ち止まり、その中の一人がフィルムの逆回しのように後ろ向きに歩き出す…という異変のはじまりの薄気味悪さ*3もたまらない。展開としては登場人物たちが怪現象から逃れるために終盤まで移動を続ける、といった新しい要素もありつつ、一方で出来事の因果関係が一切不明のまま危機のみがせまりくる不安は紛れもないシャマラン印だし、自らの信条を試される主人公、「人間が集まりすぎるとヤバいんじゃないか」という仮定から避難民の集団がどんどんダウンサイズしてゆき最後には数人が身を守る話になる展開、緑あふれる東部の森林地帯の描写(今回特に重要)など、これまでとおんなじやんけ的シャマラン映画でもある。
「いつこいつは自分の首をナイフで切り裂くんだろう」というのが全編を通してのサスペンス、という映画の中で主役のウォルバーグとデシャネルからは不穏なユーモアみたいなものがただよっていて、とくに前半のデシャネルのでっかい青い眼と挙動不審な感じには惹きつけられた。牧場の柵に置き捨てられた古いラジオや、母屋と離れをつなぐ地下のパイプなど、ちょっとわざとらしい小道具とその情緒的かつ効果的な使い方の独特のバランスもあいかわらず。異変の原因として「風に乗ってやってくる××の××がヤバイ」という仮説から、室内に閉じこもり窓を閉め切って難を逃れる描写が多く、終盤の舞台となる一軒家で××××のばあさんと一夜を過ごさざるを得なくなるなど現在日本で絶賛公開中のあの映画との妙な符合が多かった(後者は宇宙戦争のが近いか)。俺基本的に裏読みはしたくないと思っているんだけどこの「ストーリーテラー」は身も蓋もない人なので、最後TVで学者が言っていた仮説をそのまま受け取るべきなんだろうとも思いました。
…で、映画が終わってからふと気づくと、今回シャマラン出演してなかったんじゃ?大人になったな… と思っていたらエンドクレジットに名前が出てきたよ。 M. Night Shyamalan ... Joey ? ジョーイ…ってデシャネルの××相手か?ケータイの着信画面で名前が出ただけだったような…やっぱ謎だこの人。
「サイン」以来ひさびさのコンビとなるタク・フジモトの撮影が大変すばらしく、序盤の異変、中盤の移動シーン、終盤の一軒家のいくつかのシークェンスなど、撮影と演出のコンビネーションが絶品。

*1:笑うところかなと思ったが案外教師に見えた

*2:ようつべと読む

*3:フィリップ・カウフマンの「SF/ボディ・スナッチャー」に近い感じ