戦争のない20日間 (1976 アレクセイ・ゲルマン)

下高井戸シネマひっさしぶりだなあ。調べたら2000年の夏の「がんばっていきまっしょい」再上映以来だから今世紀初・下高井戸。「京王線の駅の階段をおりて世田谷線の線路向こう」という間違った知識(正しくは⇒*1)が訂正されていなかったので、前世紀と同様また迷った。劇場内は記憶の中のそれと変わりなく小ぎれいなまま、映画の日とはいえこんな地味なタイトルに客もそこそこ入っていて、地元の映画館として定着してる様子。
フルスタリョフ、車を!」のアレクセイ・ゲルマン1976年の作。「フルスタリョフ〜」は2時間半ひたすらその描写力に圧倒されつづけ、しかしなにゆえそれが描写されているのかはまったく飲み込めないという俺の見事な突き放されっぷりが記憶に残る、わけわからないがとにかく凄い傑作であった。今回、休暇を申請した従軍記者で作家でもある主人公が「戦争のない」20日間をすごすというお話はちゃんとわかったので一安心だが、しかしやはり筋を追うより画面の力でぐいぐいと展開していく映画である。
ファーストシーン、上陸作戦後の砂浜を歩く主人公の一隊にドイツ軍機が機銃掃射を仕掛けてくる。おそらくソ連軍全面協力によるノー合成ノーミニチュアでの敵機の襲来→機銃掃射→爆撃の容赦ない弾着がまずすげえのだが、このスペクタクル性に圧倒されるどころか、独自の呼吸で簡単に飲み込んでしまう演出の胆力は「フルスタ」と同様。空が低く足元がぬかるむ銃後の土地を歩く、北村和夫日下武史森山周一郎を混ぜたような重鎮顔の主人公をカメラは追う。彼が機銃掃射のあと休暇をとって列車に乗り、不貞の妻と別れた男の悔悟を聞き、その足で実家に戻り妻と別れ、タバコを吸い、軍需工場の作業員の前で演説し、前線に出たまま連絡の途絶えた夫を心配する婦人に心配ないと言い、戦場の記憶をたどり、自作の映画化の撮影現場に立会い、そこで働く子持ちの女性と愛し合い、朝食を取り、別れ、舞い戻った戦場で擲弾筒に狙われる。戦争は常に地平線の向こうの現実として見え隠れし、銃後の土地は一貫して重い空気に覆われているのだが、そのときどきにはっとするような瞬間が待ち構えている。
帰郷する列車のなか主人公と乗り合わせたコキュの男の無限に続くひとり語り。それと対応するかのような工場での主人公の演説。最初はあまり乗り気でなく、壇上に立ってもしばらく言葉を選ぶ様子でいた主人公が、時折挟まれる労働者の顔のショットに呼応するように次第に顔が紅潮していき、最終的に聴衆を沸かせる見事なアジテーションをやり遂げてしまった後の放心。その後大会送り出しのマーチを奏でるブラスバンドの奏者たちの表情を捉えるカメラ。みんな一生懸命演奏しているだけだがこれが可笑しいんだ。当時の検閲の事情などを考え合わせるとさらに微妙に面白い。まあ結局表現が勝ったってことになるんでしょうかね。
心はもうお互いそうなるしかないとわかりきっている子持ちの婦人との逢瀬。最初のキスシーンから一夜を経て、二人きりで朝食をとり(窓越しでセリフは聞こえない)、別れたあとに塀の向こうの子供に呼ばれて姿を消す婦人の身振りまで、いわゆる名画的な落ち着きとは無縁な、70年代ってアメリカや日本に来たのと同じようにソ連にも来てたんだなあとも思わせるカメラの微妙な動き。「戦争のない」はずのこの映画で戦争は常に空から降ってくるものなんだけどこれらの描写もいちいち凄く、主人公の回想シーン(ここだけたぶん快晴)で突如おこる爆撃のイメージは網膜に焼きついちゃったよ。ソクーロフの1/5のペースでいいから映画撮ってくれないかなゲルマン。

木曜(今日か!)からかかる「道中の点検」の予告編は「大列車作戦」や「拳銃は俺のパスポート」を思わせるショットのあるアクション映画だった。が当然ただのアクションで終わるわけがないので見逃し厳禁。

*1:京王の改札を出たらすぐに左にある階段を降り、いちおう鉄道だけどかぎりなく路面電車に近い世田谷線のホーム…を横目でちらと見つつ京王線の線路に沿って新宿方面へ徒歩1分